いじめ用語と世界各国のいじめ
日本で「いじめ防止対策推進法」が施行されてから、10年が経過しました。この10年間でいじめ対策が推進された側面もありますが、いじめ減少率が限定的であることと、法律そのものへの理解浸透が不十分であることなど、現行法の運用面でも多くの課題が残っています。また、同法に記されている研究調査の推進についても、消極的な状況が作っています。
他方で日本以外の国においても、国によるいじめ対策が行われています。それらは一体どのようなものなのか。主な国をピックアップした上で、その実態を概観しておきたいと思います。
具体的な内容については、PDFにまとめてありますので、ダウンロードして閲覧してください。
いじめ研究の先駆者、森⽥洋司が提唱した概念。いじめには「被害者」「加害者」だけではなく、さらなる⼆層が存在するという捉え⽅が特徴的です。
さらなる⼆層のうち、⼀つは、いじめをはやしたてる「観衆」の層。そしてもうひとつは、⾒て⾒ぬふりをする「傍観者」の層です。
「傍観者」の層には、わずかではあるが「仲裁者」(および通報者)などが含まれ、いじめを抑⽌することもあります。しかし、次のいじめのターゲットになることを恐れるなどして、仲裁を控える者が多くいます。
この理論から⽰唆を受けるべきは、「いじめはみんなに責任がある」といった道徳論などではありません。
いじめが決して個⼈間に⽣じるトラブルではなく、環境的に形成されること。そのことを認識した上で、「いじめ集団」に着⽬し、ストレス度合いやパワーバランスを⾒ながら、時にはその集団そのものを変化させるといった対応が必要だということです。
森⽥洋司『いじめとは何か』(中公新書、2010)より。
社会学者デイヴィット・マッツァが提唱した概念に、「漂流理論」があります。これは、⾮⾏に⾛るものは、「善悪の区別がついていない者」なのではなく、「善悪の区別がついており、つねにその間を漂流している者」として捉えた上で、「⾃分が⾏なっている⾏為は悪ではない」と⾃⼰肯定しようとする様⼦に着⽬したものです。
このように、⾃分の⾏為を正当化する⽅法のことを、マッツァは「中和の技術」と呼びました。つまり、⾃分のしている⾏為は悪ではないとするイイワケの技術のことです。「中和の技術」には、主に5つの類型が挙げられています。
「責任の否定」 「危害の否定」 「被害者の否定」 「⾮難者への⾮難」 「⾼度の忠誠への訴え」
です。
これらはいじめにも当てはまります。「⾃分がやりだしたんじゃない」(責任の否定)、「これはいじめではなくふざけていただけだ」(危害の否定)、「この⼦が⽣意気だからこらしめていただけだ」(被害者の否定)、「そんなことを注意される筋合いはないし、そもそもお前は⼈に注意できる⽴場か」(⾮難者への⾮難)、「クラスのノリを乱すのがいけないんだ」(⾼度の忠誠への訴え)、といった具合に。
いじめは「悪」だと知られているからこそ、加害者はその加害性を否定しつつ、⼤⼈の⽬を盗んでいじめを⾏います。その際に⽤いられる「中和の技術」を鵜呑みにするのではなく、適切な仕⽅で加害を特定していく必要があります。
アメリカでは、度重なるいじめ⾃殺事件を受け、各州で「反いじめ法」が制定されて⾏きました。この法では、各関係者ごとに、具体的な対策を⾏うことが義務付けられています。カウンセリング機能を整えたり、教師に研修を受けさせたり、学校側がいじめに関する啓発を⾏うように促したり、ネットいじめについての⽂章を盛り込んだりと、各州様々です。
州によっては、厳罰路線を強調するところもあり、その⽅向性をめぐっては論争も絶えません。もちろん、法による縛りがなくとも、関係者が⾃発的に対応を進めることができれば、それが最も望ましいでしょう。
関連資料:「アメリカ合衆国におけるいじめ防⽌対応―連邦によるアプローチと州の反いじめ法制定の動き― 井樋 三枝⼦」
相⼿や周囲の⼈を性的に不快な気持ちや不安な気持ち等にさせる⾔葉や⾏動。
ただし、ハラスメント悪質性の程度が⾼く、ハラスメントを受けた⼈が精神的に追い詰められるような状況となったときは、特に「性的いじめ」として捉えた⽅がよい。
「⼥らしさ」・「男らしさ」の物差しから外れた⾏動や態度に対し⾮難すること。
<例>⼥のくせに⼤⾷いだな、⼥のくせに男⾔葉を使うな、男のくせにだらしがない、男ならもっと堂々としろ、男のくせにそんな⼥っぽいものが好きだなんておかしいんじゃないの…
これは⼈を「⼥らしい⼥」や「男らしい男」でなければ認めないという認識に基づくもので、多様な⽣や性の在り⽅を認めようとする考え⽅を真逆のもの。多様な性や⽣を認めることが⼈権尊重のひとつとして理解されるようになっている今⽇、ジェンダー・ハラスメントは認められない。このハラスメントは、ハラスメントを直接受けている⼈がLGBTである場合はその⼈の存在そのものに対する重⼤な攻撃となり、「いじめ」といえる。
⼀⽅、ハラスメントを受けている⼈が⾮LGBTの場合は、セクシュアル・ハラスメントと同様、その程度等により、いじめとなりうる。しかしながら、⾮LGBTの⼈に対するジェンダー・ハラスメントは、それを⾒聞するLGBTの⼈にとっては、⾃分の存在がとてもネガティブに捉えられていることを思い知らされるものであるので、間接的にであれ、LGBTの⼈たちに対するハラスメントとなりうる。ジェンダー・ハラスメントはそれゆえ誰に対しても許されず、その程度によってはいじめとなるもの。
しかしLGBTの⼈たちにどのようなインパクトを特に与えるかは正確に知る必要がある(LGBTについてはこちら)。
ジェンダー・ハラスメントに端を発するいじめには、いじめの対象とされた⼈がLGBTであろうがなかろうが、「男らしくもなく、⼥らしくもない⼈」を「⼈」と思わない気持ち、つまり差別意識に基づいているものとも考えられる点に注意したい。